年号 | 事項 |
1833年 (天保四年) | 藩医和田昌景の子として生まれる。 |
1840年 (天保十一年) | 桂家の末期の養子となり、家督を継ぐ。 |
1849年 (嘉永二年) | 吉田松陰に師事。 |
1852年 (嘉永五年) | 江戸に遊学し、神道無念流斎藤弥九郎道場に入門。翌年には塾頭となる。 |
1853年 (嘉永六年) | 江川太郎左衛門に洋式兵術を師事。 |
1858年 (安政五年) | 江戸藩邸大検使となり、江戸番手を命じられる。 |
1859年 (安政六年) | 同志らと共に吉田松陰の遺体を埋葬する。江戸藩邸の有備館用掛に就く。 |
1860年 (万延元年) | 水戸藩の尊攘派と丙辰丸盟約を結び尊王攘夷運動に参加。 (高杉晋作、久坂玄瑞らと並ぶ尊皇攘夷派のリーダーとなっていったが、その一方で坂本龍馬、勝海舟といった開明派とも親交を持った。) |
1862年 (文久二年) | 京都留守居役として上洛。藩命により公卿や他藩との折衝に当たる。 |
1863年 (文久三年) | 直目付に命じられる。京都・神戸において、勝海舟に会う。 |
1864年 (元治元年) | 禁門の変敗北により、但馬に逃れる。 身をやつして二条大橋の下に潜む桂のもとに、木戸松子(幾松)がにぎり飯を運んだという有名なエピソードがある。 |
1865年 (慶応元年) | 藩命により下関へ行き、坂本龍馬と出会う。木戸貫治と改名。 |
1866年 (慶応二年) | 薩長同盟。木戸準一郎と改名。 |
1867年 (慶応三年) | 大政奉還。 王政復古の大号令。 |
1868年 (明治元年) | 総裁局顧問。外国事務掛兼務。 版籍奉還建言。五箇条誓文の草案を起草。
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1869年 (明治二年) | 版籍奉還。これによって封建領主制の改革を実現する。 この前後、国家統一の政略として征韓論を主張した。 |
1871年 (明治四年) | 廃藩置県を断行。 全権副使として岩倉具視と共に渡米。 |
1873年 (明治六年) | 帰国。 憲法制定を建言。 西郷の征韓論に内治優先を理由に反対。西郷を下野させたが、大久保の征台論に反対し自らも下野。 |
1874年 (明治七年) | 大久保の唱える台湾出兵に反対して参議を辞す。 宮内省出仕となり、明治天皇を補佐。 |
1875年 (明治八年) | 大阪会議。再度参議に就く。 元老院章程草案作成に参加。 |
1877年 (明治十年) | 五月二十六日京都で死去。享年45歳。 西南の役。西郷隆盛自殺する。 |