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私の終戦余話一 「武装解除」
元百十六師団衛生隊(嵐六二二九部隊) 奥村 由三
 「不念旧悪」「以徳報怨」これは、あの蒋介石閣下の有名な言葉である。中国各地で八年間対峙し敵としてしか考えなかった我々、中国派遣軍を俘虜としてではなく、日本陸軍部隊として内地に復員し、戦火に荒廃した、日本本土復興の礎となれ、と、「過ぎ去った悪い出来事は忘れてしまう、」「怨には徳を以って報いる」私達は、この中国大人の日本流で云えば、この鶴の一声で祖国の土が踏めるようになったのだ。
 斯くして、二〇年九月衡陽から転進して宝慶に移駐してから丁度一年、短い期間ではあったが、あの湘西作戦、中でも雪峯山脈での苦斗、山門での友軍救出作戦、そして死の反転停戦を迎えたことなど、生涯忘れることが出来ないであろう数々の思い出を残して九月三日、部隊は白昼堂々の行軍隊形を整えて、宝慶をあとにした。米軍機に悩まされて、夜間の行動ばかりであったこれまでとはうってかわって、何の心配もなく白昼堂々の行進は何だか、夢のような思いがした。
 途中、停戦と知らない土匪と小競り合いもしたりしながら部隊は九月十五日、一時長沙南方地区に集結した。更に岳州西南方地区に転移するため再び行軍を始め、九月三十日部隊が割り当てられた宿営地、彭家冲に到着した。宝慶出発以来、約二五〇粁の距離を行軍したことになる。彭家冲での宿営は当初、ほんの数日の予定だったらしいが、各部隊の復員業務が意外と手間どり翌二十一年の四月二十三日までの約七ヶ月にもなり住民に色々と迷惑をかけたものだった。
 彭家冲に到着した直後、師団命令により、兵器類を中国側に引渡す、つまり武装解除が行われた。十月四日私は池井中尉転出後、空席となっていた兵器係の代理として、脇田衛生軍曹を通訳にして、各隊より兵器、弾薬一切を携行させ、彭家冲の西北約六粁洞庭湖畔にある、鹿角市に赴いた。鹿角市には歩兵一二〇聯隊が宿営していたが、中国側より接収部隊が来ており、隊長は第一八師の張中佐と言った。
敗戦の現実を思い知らされる最もつらい役目であったが、出発する時、員数外にしておいた部隊長のコルト式拳銃一挺と新しい長靴に拍車もつけて、張中佐への部隊長からの賜り物として持参していた。心配していたが、なんとかうまく張中佐に手渡すことが出来、張中佐は非常に喜んで井村部隊長へ謝意の伝言の依頼があった。
兵器などに若干の員数不足があったが、黙認してくれて無事移譲の手続きを終えることが出来た。山と積まれて行く兵器類を見て、こみあげて来る悔しさをおさえるのに困った。此のあと自衛用として軽機関銃一挺を含め、一コ分隊分の小銃、弾薬を要請したのに対し、心よく応じてくれ、改めてこれらの、兵器を受取って帰隊、無事大役を果たすことが出来、肩の荷を降したものであった。
此らの兵器が彭家冲駐留期間中、住民に対する無言の威力となっていたのであった。

(以下、あとがきより抜粋)
昭和生れの人が大半を占める現在、私が主張せんとすること、又次代に、ぜひ継いでほしい精神など、おそらく昭和世代の人は誰も理解することもなく、一人の老人の譫言(たわごと)と一笑に付するかも知れないと思うが、私は敢えて、この事実を次の時代に伝えたい。
十年、二十年、はたまた数十年の歳月が経つかも知れない、けれど日本の、日本人の歴史がつづく限り必ず、いつかはきっと、これらのことを理解する人が表われることを信じ、又このことを心の遺産として残すこ とが、昭和の先駆者としての大正生れの義務だとも思うものである。

おくむら よしぞう
大正八年十一月 京都に生まれる
昭和十五年一月 伏見歩兵第九連隊に入隊 その後、中国大陸に渡り、安徽・湖北・湖南 の各地を転戦
昭和二十一年七月 鹿児島へ帰還
現在、京都霊山護国神社崇敬者総代・昭和の杜友の会評議委員・嵐衛友の会・安慶「桜 の園」後援会代表幹事 他、多方面で活躍 されている

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