十八年前の一九八四年四月、私達は桜の苗木四百本を安慶に持参して植樹祭を行った。それは祖国に還る事が出来なかった戦友に見て欲しい、と願う秘めたる思いと、友好平和を祈念するモニュメントにしようとする、安慶を知る戦友達の熱い情念の結集であった。「桜花園」の開園式で、小さな子供達が澄んだ声でサクラサクラを歌って歓迎してくれた時、参加した戦友達は胸を熱くし、目を潤ませていた。三年目から花が咲き出し、数年毎に日中共同の桜まつりが催され毎回十数名の有志が参加した。二年前の二〇〇〇年四月の桜まつりは、私達の参加もこれが最後になるかもと僅かに残って いる旧跡を廻り振風塔に別れを告げてきた。今年の四月九日の信濃毎日新聞に二頁見開きの豪華なカラー頁で安慶の街が紹介された。それは数年前に帝国ピストンリング(本社東京・工場信州岡谷)が唯一の日本企業として進出しており、その工場は一千余名の現地の人が働いている大きな生産設備を持っている。信濃毎日が郷土産業の海外事情の特集として現地取材されたものである。数葉のカラー写真は街の風景や工場を写したものであるが、その中に桜が美しく咲いている桜花園の写真があるのに驚いた。そして工場の最高責任者の唐木さんとの対談の最後は次のような文章で締めくくられていた。「唐木さんがよく散歩する安慶市の菱湖公園には、四百本の桜がある。戦中安慶市に駐屯していた旧陸軍一一六師団の兵士達が平和を願って寄贈したものだ。二年前の桜まつりに参加した兵士の一人がホテルに唐木さんを訪ねて、桜のいわれを後の人達に伝えてほしいと頼んでいった。取材した日は公園の八重桜は鮮やかな紅色の桜を付け始めていた。桜の木の下で唐木さんは言った。『安慶に日本軍がいた事を初めて知った。ここに来て、この桜が無事育っているかちゃんと見てやらんとなァ』と諏訪弁混じりの一言が心に残った。」
十八年前、私達の運動に協力して戴いた六百名近くの方々に、今このような報告が出来る事を嬉しく思っている。
「次代に伝えん」をモットーに歩んできた私達の戦友会も、減る 仲間に止むなく解散となり淋しい限りであるが、安慶市と茨木市の友好都市提携のきっかけを作り、永続する国際交流の発展を軌道に乗せる事が出来た。そして安慶には「桜花園」の桜が毎年美しく咲き、春の風物詩の一つになって来ている。安慶に限りなき慕情を抱く私達は、生きて還れた者としての務めを少しは果たせたのではないかと思っている。
(元第百十六師団衛生隊 戦友会「嵐衛会」幹事)
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おくむら よしぞう (写真右側が奥村氏) 大正八年十一月 京都に生まれる 昭和十五年一月 伏見歩兵第九連隊に入隊
その後、中国大陸に渡り、安徽・湖北・湖南
の各地を転戦
昭和二十一年七月 鹿児島へ帰還
現在、京都霊山護国神社崇敬者総代・昭和の杜友の会評議委員・嵐衛友の会・安慶「桜
の園」後援会代表幹事 他、多方面で活躍
されている
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