当、嵐歩兵第一二〇聯隊は動員下令により、昭和十三年五月十五日、福知山を発し中支、揚子江(現長江)沿岸地区に出動以来四年余りを周辺地区の警備と各討伐作戦に参加した。
昭和十八年七月、嵐兵団の編制改編に依り戦闘部隊となり、同年十一月の常徳作戦に始まり、終戦に到る二年間を大陸縦貫の湘桂大作戦、湘西作戦、沚江作戦等々、約二千キロの戦線を踏破し健脚部隊の誇りの下、勇戦奮闘により、多大の戦果を治めたがその間に、和爾聯隊長を初め三千四百有余柱の将兵が御国の盾として散華されたこと、誠に痛惜の極であります。
そして昭和二十年八月十五日湖南省宝慶地区に於いて終戦の詔勅下令に依り矛を収め、対面する中国軍と停戦協定を結んで、八月下旬から九月上旬に夫々の駐留地を発し、約五百キロ後方の岳陽県洞庭湖畔鹿角地区に向う、十月初旬には、聯隊の集結も完了し、爾後約八ヶ月間を同地周辺の村落に分宿し復員待機する其の間中国側の要請で道路の復旧工事や、隊員の健康維持の為に運動会や野球大会を実施したり又将来の日中友好を考慮し、村民とは出来る限りの融和親善に努める毎日でもあった。十月下旬には聯隊の兵器及馬匹一切を中国軍に目録添付の上、引き渡したが、特に火砲類に就いては操作未知の為我が方に於いて、教育指導訓練を旬日に亘り行うこともあった。
さて、十二月八日の第二次大戦勃発日を迎えて、聯隊本部所在の丘陵地に祭壇を設け、聯隊全員整列の下、嵐歩兵第一二〇聯隊の第一回合同慰霊祭を厳粛且つ盛大に斎行し御霊を弔い慰霊の誠を捧げた次第であります。
当日の児玉聯隊長の弔文次の通りです。