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ガルダの航く積雲の底深く 我が懐かしのバリトの光る
2001年7月初め、成田航空を飛びたって一路インドネシアのジャカルタへ向った。 ガルダ航空機は積乱雲を縫ってフィリピンを右に見ながら6時間を経過するとボルネオ島の上空に到り、 やがて雲の下にバリト河が見え、ジャワ海を飛んでスカルーハツタ空港に着く。 今をさる56年前の7月ボルネオ島は激しい戦斗に包まれ、やがて8月15日の敗戦となった。 私は1944年 2月、第31海軍航空隊主計長を命ぜられて、羽田空港を飛びたち高雄を経てマニラへ向った。 マニラは酷暑の季節へ入り、マンゴの実がようやく大きくなりかけた頃であった。 椰子の葉で葺いた航空隊の隊舎には、司令をはじめ飛行長、整備主任等が集合しはじめ、 台湾経由で中練も飛んできて、陸の航空母艦で急速に飛行士の養成をはじめた。 夜に入ると、ゲリラが襲来し、朝になるとマニラ湾の沿岸に殺された日本人の死体が横たわる情勢であった。 9月初めのマニラ初空襲を前にして、練習機への給油が困難になりはじめ、航空隊はインドネシアのジョクジャカルタへ移駐することになり、 私は8月初旬に先遣隊として移動した。若い航空隊員はマニラ港から船舶輸送となり、途中米潜水艦に撃沈される船もあり多くの戦死者を出すことになった。 1945年4月、私はボルネオ海軍民政部経済課長を命ぜられ、やがて敵上陸を察知して食糧その他の収集に当たることになり、 ボルネオ随一の大河バリト川の下流に位置するバンジェルマシンへ移動した。6月15日米艦隊は東部のバリックパパン沖へ現れ、 艦砲射撃と爆撃を2週間続け、7月1日を期して上陸してきた。海軍部隊を主力とする我軍は、次第に後方のジャングル地帯へ退き、 北方のマハカム河方面へ向った。食糧不足と戦傷病によって5000人の戦死者を出す結果となった。 そして8月15日の敗戦を迎えることになったのである。バリックパパンは石油の町であったが、完全に破壊され、 現在は再び石油によって立派に復旧している。 私はバリックパパンとバンジェルマシンの中間にある山脈の中に敵迎撃の陣地構築を命ぜられていたが、 敗戦の報によってバンジェルマシンの海軍民政部へ復帰し、やがてバリックパパンに於ける一年間の捕虜生活に入ったのである。 思えば日本の国力は長期戦には堪え得なかったのである。
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