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この8月18日の政変以降、幕府は紀伊、彦根藩を始めとする諸藩に天誅組討伐の厳命を下し、天誅組は追討軍迫るところで転戦しつつ敗退し、吉野郡鷲家口にて彦根、津、紀州藩兵と激戦の末、那須信吾の決死隊も全滅、藤本鉄石、松本謙三郎らも戦死、吉村寅太郎は鷲家口の民家に潜伏しているところを津藩兵に包囲、乱射のもとに「残念」と叫び斃れ、その戦いはひと月余りで壊滅した。「吉野山 風に乱るる 紅葉は 我打つ太刀の 血煙とみよ」は吉村寅太郎による辞世の句であり、戦いの壮絶さを物語るものである。
盟主 中山忠光卿は大和から長州に逃れたものの、元冶元年(1864年)豊浦郡田耕の山中にて暗殺され、二十歳でその生涯を終える。この3年後、維新の大号令は発せられた。
かくして天誅組の討幕は激戦の末、失敗に終るが、この挙兵は以後の明治維新へと導く道標となった事はいうまでもない。この後、様々な流れを経て、新しい時代の幕が開いてゆくのである。
※当社、境内には志半ばにして斃れた天誅組志士の墓碑が祀られております。祖国を思う心はいつの時代も変わる事はなく、その志は次代へと継承されてゆくものであります。本稿にて紹介致しました天誅組に関心をお持ちになられましたならば、是非、その歴史の断片に触れるべく、史跡散策をして戴ければ幸いに存じます。
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