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こうした背景の中、民間志士達の間では尊皇(天皇崇拝思想)攘夷(外国を追い払う)討幕の活動が盛んとなり、
尊攘派は果敢に朝廷工作を進め、ついに文久3年(1863年)8月13日 孝明天皇の攘夷親征(大和行幸の詔)の許しを得たのである。
討幕を目的として組織された天誅組は、前侍従 中山忠光卿(明治天皇の叔父にあたる)を盟主に擁し、備前の藤本鉄石、土佐の吉村寅太郎、三河の松本謙三郎らが主謀者となって挙兵した。
この挙兵は孝明天皇の攘夷大和行幸の発詔近しを知った吉村寅太郎らが、兵を募り、吉野の地に孝明天皇を奉迎しようとしたのが始まりであったといわれる。
盟主 中山忠光卿以下、38士は洛東方広寺に集結し、攘夷親征の先鋒として京都を出発、大和に入った天誅組は皇軍の先鋒であるとの信念をもって五条代官所に幕府の領地を天皇の領地にすべく交渉にあたったが、五条代官所はこれに応じず、やむなく襲撃。代官 鈴木源内を始め5人を斬り、桜井寺を本陣としたが、折りしも8月18日、公武合体派の会津、薩摩藩は京都でクーデターを起こし、長州藩、攘夷派志士たちは三条実美卿ら七卿と共に西へ落ちて行く事となる。(七卿落ち)この京都での政変により、天誅組はその立場を一変、義軍変じて賊軍として追討される事となった。
三条実美卿は彼らの挙兵を困難と指摘していたが「我らは大義に基づき討幕の挙兵をしたのである。たとい成功せずとも必ず天下の志士が我らの志を継ぎ、奮起後続目的を達成してくれるであろう」と主張、挙兵は中止される事はなかった。
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