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| 霊山の史跡紹介 天誅組 |
慶長8年(1603年)徳川家康が江戸に幕府を開いて250年、国政を掌握し、その政策のひとつに諸外国(中国、オランダを除く)に対して極端な対外封鎖政策(鎖国)が行なわれていた。
このような中、嘉永6年(1853年)ペリー率いる米艦隊(黒船)4隻(サスケハナ、ミシシッピー、サラトガ、プリマス)が浦賀に来航し、久里浜に上陸、フィルモア大統領の親書を手渡して、断固たる態度で日本に開国を要求してきたのである。
この出来事は海防の強化が緊急の課題とされたが、大砲の数は足りず、寺の釣鐘を大砲の代りにと設置するその有り様は 「泰平の眠りを覚ます蒸気船(上喜煎)たった四はい(4杯)で夜も眠れず」とも詠われ、当時の狼狽ぶりを窺わせた。もはや幕府だけの力では海防強化の実現は不可能であり、支配層を中心に海防論議が活発化する。
ペリーは浦和に来航した翌年、安政元年(1854年)横浜にて幕府と日米和親条約を締結、幕府は下田、箱館(明治2年函館と改称)の開港を始めとする条項を認めた。しかし、この条約は日本にとって不等な内容が折り込まれており、また、勅許を待たずしての断行は徳川幕府の独裁への弛緩傾向を強め、雄藩連合、公武合体による幕政の改革が推し進められる結果を生む事となった。
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