| 私の戦歴書 |
苗村 俊郎
大正9年1月20日生
昭和16.1.10中部第40部隊(京都野砲連隊)入営、同年陸軍野戦砲兵学校を経て第53師団野砲兵第53連隊に転属、
安10027部隊連隊長高見量太郎大佐、昭和17年11月任陸軍少尉、22歳。
昭和19年3月内地での永い乗船待ちを経てやっとのことシンガポールに上陸、
南方軍指揮下に入り泰緬鉄道を通過ビルマに入国。ウインゲート空挺部隊降下のためモール陣地攻撃に参加、
時恰も雨期の最中で輸送船不足のため後続の第3大隊は内地に待機中という駒ぎれ出陣であった。
昭和19年9月任陸軍中尉、同年10月モーハン陣地(北ビルマ)に於いて盤作戦に参加中敵機の爆雲で負傷、
同期の岡沢中尉は即死された。昭和20年2月第2大隊本部より連隊本部付属将校として配属、
高見連隊長負傷後送の為横田武夫大佐と交代される。
昭和20年3月マンダレー西方タウンター陣地に新作戦の為移動、
一つはメークテイラを経て首都ラングーンへ通づる要地で1788高地があり頂上には立派な寺院がそびえていた。
観測、通信兵4名率い私は将校斥候として来攻する敵、緊急の状況を直接連隊長に報告すべく飛行機、戦車、
火炎放射器で来襲の中20日間頑張った。この時戦友1名を失っている。敵は我が陣地を(赤とんぼ)観測機で着弾を誘導し、
1発を撃てば20発が打ち返されるという彼我の戦況はどうすることも出来なかった。
大型戦車、ジープの量とても桁外れのものであった。そのような情況の中、
麓で激戦中の砲兵第7中隊長大森中尉は砲と運命を共にし玉砕、同中尉は軍より感状を授与された。
また私も及ばずながら師団長より誉詞を受く。
ビルマといえばインパールが代表されるが、ミートキーナに於ける菊兵団救出作戦、フーコン地区での悪疫瘴癘の地での戦い、
白骨街道での苦斗等は総てが糧秣給与に関係する悲劇であり後世に伝えられることであろう。
終戦の日、戦場は爆音もなく不気味な予感がした。やはり敵飛行機の撒くビラが本当だった。この日は雨期の真最中、
滝の如く降る雨のジャングル、栄養失調の将兵は枝から落ちる蛭にまで血を吸われ、
薬なく、マラリヤ、アミーバ赤痢などで次々と戦友は斃れていく、若き将兵達の戦死には一際心を痛めた。
私のそばに投下された大型爆弾が不発であったり、ほんの一ときそばに置いた鉄かぶとの中に機銃弾3発、
或る時は胸のポケットにしまっていた母の写真が爆風とともにどこかへ等々神仏のご加護と母の導きを知る。
昭和22年7月散華された数多くの戦友の心安かれと祈りつつ紺碧の空にそびえ耀くシュエダゴンパゴダをあとに復員した。
部隊編成時1538名、戦没1141名復員397名祭祀せる京都霊山護國神社に「星光萬年」碑を建立慰霊を続ける。
また戦友達は交互に方緬、現地で手厚い慰霊祭を挙行し安らかに神鎮まりますよう冥福を祈り続けてきた。
植民地から解放されて、独立国となったビルマの人達は、これからも日本のことを忘れないでいてくれると想う。
セクパンは萌え、イラワジの大河は何事もなかったかのように今日も静かに流れていることであろう。
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