今、私はしきりに「あの日」の記憶を、蘇らせようとしている。確か、「あの日」は、とても暑い日だったと憶えている。そこは中国湖南省、宝慶県城外の小高い丘の上の密柑畑に囲まれた中の小さな一軒家だった。暑かったその日が暮れて、喉元にも到底通りそうにもない夕食を終えて間もない頃、部隊副官の田中中尉が私を呼んでこいとの連絡を受け、アンペラで仕切った質素な副官室へ急いだ。副官は私の来るのを待ちかねていたかのように、「奥村、どうも今日の部隊長の様子が尋常でないように思うので、今夜、おまえ、部隊長と一緒にいてくれ。」と命ぜられた。私は早速、部隊長室の戸を叩き、「奥村軍曹、入ります。」と大声をかけて部屋に入った処、部隊長井村大佐は、軍刀を右側に置かれ、正座黙想されていた。私も黙って部隊長に向い合って正座し、時の移るのを待ちながら、私にとっても、部隊にとっても、そして日本の国にとってもの、とてつもなく大きな変化のあったことを、頭の中で次から次へと思い出していた。
八月十五日の終戦の詔書煥発の大ニュースは、無線機を持たない私達の部隊は全く知らなかった。そして「あの日」とは、翌十六日の事である。私と毎日交代で師団司令部の命令受領に行っていた戸川軍曹が帰隊し、日本が連合軍に降服したこと、その為、昨日天皇が自らラジオを通じて放送された、その放送は何のことか意味がよくわからなかったが、降服したことは事実のようである、との報告が副官に伝えられ、夕刻近く陣地構築の視察から帰隊された部隊長に報告された後、部隊長の指示に基き各隊長に対し取り敢えず、流言非語を戒しめ、軍紀を厳正にするよう、通達された。副官から師団長、及び参謀長からの細かい指示を聞かれた部隊長は、指揮官として、又、高級将校としてその責任を痛感され、自決を決意されたようで、副官がずぅーと傍らについていられたが、各隊に対し種々の指示事項もあるので、本部下士官の私にその交代を命ぜられたのであった。対座してから何時間たっただろうか、それは、それは長い、長い時間のように思えた。その間、部隊長は両眼を閉じられ終始無言の儘だった。夏の夜は明けるのも早い。まして小高い丘の上の一軒家、東天がようやく白む頃、一夜を一睡もせず対座したままだった、部隊長と私。その時、それまで一言も発せられなかった、部隊長が突然、
「奥村軍曹、安心せよ、わしは死なない。わしも一晩よく考えたが、今、わしが死んだら、可愛い、お前達、多くの部下を、家郷に帰すことが出来ないかも知れない。今、わしがせねばならない第一のことは、お前達を、ご両親の待っていられる家郷へ無事に帰すことだ。わしのことは、それから考える。この事を副官に伝えよ。」と、部隊長は一言、一言噛みしめる如く諭す如く話された。その途端、今まで堪えに堪えてきた私も万感胸に満ちて、私の両眼から大粒の涙が止め度もなく流れるのを止めようにも止めようすべもなかった。更に部隊長は言葉をつがれ、「これからの我が国は、きっと、アメリカデモクラシーの国になると思うが、奥村、絶対に、心は、日本人としての心は、忘れてはならないぞ。」とも云われた。私はこれ等、部隊長の言葉を早速、一言も洩さず副官に報告したことは、云うまでもない。
その部隊長は、私達が列車輸送で帰国の定まった時、戦犯容疑者として漢口に残留されたが、その後の消息は全く知らない。青森県、弘前出身で、その時、六〇才近かった部隊長は、今は恐らく生存していられないと思うが、「あの日」の出来事は今なお私の脳裏に、強烈に焼きついている。「日本人の心」…そして…「大粒の涙」。私もこの歳になるまで、心の中で泣いたことは何度かあるが、男として、涙を流して泣いたのは、「あの日」あの時だけと思う。
「男泣き」…あれが本当の男泣きだろう。