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勤皇の志士

維新の道

京都東山霊山りょうぜんにある明治維新史蹟「旧霊山官修墳墓」には、明治維新の誕生につくした志士たち1043名の御霊みたままつられています。

東大路通りからこの霊山に通じる京都霊山護國神社の参道は「維新の道」とよばれています。

坂本龍馬さかもとりょうま中岡慎太郎なかおかしんたろう

勤皇・佐幕と対立抗争をくりかえしていた幕末に、「日本はひとつにまとまらなければならない」という大きな視野から、新しい時代を構想していたのが坂本龍馬さかもとりょうま

薩長連合(1866年)を成立させ、海援隊を組織し、世界情勢や貿易の必要性を唱えたが、同志・中岡慎太郎なかおかしんたろうとともに、1867年京都近江屋おうみやで暗殺。

現在、二人の功績を称えて陵内に銅像が立っています。

坂本龍馬 年表(PDF) 中岡慎太郎 年表(PDF)

桂小五郎かつらこごろう幾松いくまつ

京都には島原や祇園など多くの遊里があり、志士たちと芸妓たちとの間で多くの”恋”が生まれました。

その代表的なものが桂小五郎かつらこごろう(後の木戸孝允きどたかよし)と幾松いくまつです。

幕府に追われていた小五郎をかくまったところから恋が芽ばえ、二人は夫婦となり維新を迎えました。

桂小五郎 年表(PDF)

暗殺の時代
池田屋事件と志士たち

幕末十年間は暗殺の時代。悲運の犠牲者はおびただしい数にのぼります。

新撰組しんせんぐみに襲われた池田屋いけだや事件(1864年)はその代表的な事件。

長州の吉田稔麿よしだとしまろ、肥後の宮部鼎蔵みやべていぞうらの優秀な人材が失われました。

池田屋事件殉難者(PDF)

京都燃ゆ-禁門きんもんの変
長州藩の英才たち

長州藩は討幕運動の拠点。1864年長州藩は大挙して蛤御門はまぐりごもんで幕府軍と闘いました。

これはまれにみる激しい闘いで、京都の町811町、3万余戸の民家が焼失したほどです。

この闘いで、福岡久留米藩の真木和泉守まきいずみのかみに、卒いられた長州軍は、久坂玄瑞くさかげんずい来島又兵衛きじままたべえ入江九一いりえくいち寺島忠三郎てらじまちゅうざぶろうという人材を失い、大きな打撃をうけました。

尊皇攘夷そんのうじょうい運動の芽生え
草莽そうもうの志士たち

明治維新の原動力となったのは尊皇攘夷そんのうじょうい運動です。

この運動は天保年間(1830~1843年)から急速に高まってきます。

この頃活動したのが、漢詩人の梁川星巌やながわせいがん、儒者の頼三樹三郎らいみきさぶろう、安政の大獄で処刑された若狭藩士の梅田雲浜うめだうんぴん、清水寺成就院じょうじゅいん住職の月照げっしょうらです。彼らの活動が後の志士たちの運動のいしずえとなりました。

尊皇攘夷そんのうじょうい運動の地域展開
天誅組てんちゅうぐみ生野いくのの変

幕府勢力に抗戦した事件として、1863年の天誅組てんちゅうぐみの変と生野いくのの変があります。

天誅組は、中山忠光なかやまただみつ吉村寅太郎よしむらとらたろうが主導し南大和で蜂起。

生野の変は、平野国臣ひらのくにおみ但馬たじまの生野で蜂起したもの。

いずれも敗北しましたが、討幕の志士たちに大きな影響を与えました。

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