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大東亜戦争の末期、戦況は航空決戦が祖国の存亡を決する事態
となり、その時大学、高等専門学校を卒業または在学中の我々は、
敢然として海軍飛行予備
学生、生徒を志願し、大空の決戦場に向かう決意を固めていた。 短期間の猛訓練の後、技量未熟のまま 立場上航空隊指揮官を拝命することになり、練度の 高い古参搭乗員と、我々と同様経験の浅い練習生 出身の若手搭乗員を配した編隊の長として、常に圧倒 的に優性な敵機との交戦を強いられることになった。通常の戦法 で戦果を挙げることは極めて困難であった。味方の援護が期待 できない航空戦に勝つために残された選択肢は唯一つ、敵の盲点 を突き自分の生命を捨てヽ突入自爆するしかなかった。かくして 大戦中散華された予備士官搭乗員の総数は2485名に達し、 うち特攻攻撃を敢行された方は実に658名に上り、その多くが 沖縄戦で主として南九州各基地より重い爆弾を搭載、敵艦船轟沈を期して出撃、南西諸島方面で散華 された。
昭和21年11月9日東京築地本願寺で第一回の慰霊法要
が執り行なわれた。その集まりが発展的に予備学生、生徒
各期のご遺族と生存会員を含む全国組織の「白鴎遺族会」
として発足、昭和26年に厚生省より社団法人の認可を
受けた。爾来毎年春秋2回靖國神社での慰霊祭は平成7年まで95回執行をもって終り、法人格を返上解散。 新たに13地域の任意組織に分割再発足した。その一つが東京に次ぐ規模を有する当会である。 一方関西圏では独自に昭和26年4月に第一回京都東本願寺での慰霊祭を皮切りに京都、大阪、神戸、奈良の4支部が それぞれの地域会員に便利なよう輪番交替で50回近い慰霊を執り行なってきたが、 平成8年組織分割に伴い文字通り地域密着型の関西白鴎遺族会慰霊祭として定着することになった。 その間会員の高齢化が進み輪番制維持が困難になり、永代供養を行うに最相応しい京都霊山護国神社にお願いすることに決まった。 その機会に永年の悲願だった全白鴎顕彰碑建立案が浮上、昭和の杜に「白鴎顕彰之碑」として建立された。 また平成15年9月には予備学生出身者の主力を占める我々13期生の入隊60周年記念大会が京都で行われ、 その最後の慰霊祭、並びに碑前祭を同社で催すことが出来た。これらは関西白鴎遺族会が組織をあげて主唱した成果である。 鈴木(すずき) 富(とみ)三郎(さぶろう) 第13期海軍飛行予備学生
大正12年6月12日 京都市生まれ
昭和18年9月 大阪外語在学中海軍予備学生を志願 三重海軍航空隊入隊 基礎教程 昭和19年1月 第二美保海軍航空隊入隊 練習機教程 昭和19年5月 大村海軍航空隊入隊 実用機教程 戦闘機専修 昭和19年9月 峯山海軍航空隊赴任 予科練生教官として飛行作業中特攻訓練に転換 昭和20年7月 特攻編成で、鹿屋、岩国両基地に 展開のまま終戦 現在、関西白鴎遺族会事務局長・「昭和の杜友の会」評議員
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